篤姫様御留 ビワの季節に思うこと

こんにちは。今日も 拙ブログにご訪問いただいた皆様 ありがとうございます。

さてさて 店頭で ビワを見かけるようになりました。

ビワの実の鮮やかなオレンジ色がパッと目に飛び込んでくる季節になると 決まって かの篤姫が好きだったというエピソードを思い出すのです。

大奥での活躍の源は薩摩の食にあり⁈

ビワのほかにも 甘く似た白いんげん豆 樽柿 薩摩の赤味噌 高菜の漬物 あんかけ豆腐 ライチのはちみつ漬けなどを好んで食べたという彼女。

健全な精神は健全な肉体に宿る といいますが 嫁ぎ先である徳川家と 実家である薩摩藩が敵対していくさだめの幕末の江戸城大奥にあって ストレスに負けず気丈に采配をふるう肉体を支えたのは 幼いころから食べ慣れた薩摩での食事だったのかもしれません。

結果的に 脚気にかかることもありませんでした。

島津斉彬が 一族の姫の中から篤姫を選んだのも 容姿云々 教養云々よりも ピカイチの健康な肉体を持つ女性だったからではないでしょうか。

もし 篤姫に子どもが生まれていたら

そんな健全な肉体を持つ彼女なので 家定との夫婦生活が続いていれば懐妊の可能性もゼロではなかったはず。

残念ながら 結婚後 ほどなくして家定は亡くなってしまいます。

これはもう 全くの夢物語になってしまうのですが もし 篤姫と家定の間に子どもが生まれていたら どうだったかなと思うことがあります。

彼女なら きっと 肝のすわった ちょっとやそっとのことでは動じない胆力のある人物に育て上げられたのではないかと。

江戸参府は 海路ではなく陸路 

ところで 篤姫が薩摩から江戸へ向かう道中 現在の鹿児島市内から鹿児島湾を渡って 垂水 志布志
を通り 宮崎県串間の福島から出航 途中日向の細島 下関などで休息しながら瀬戸内海へ抜け大阪を目指した つまり海路だったと記憶していて 志布志市になじみがある私にとっては それがひそかな自慢だったのですが

今回この記事を書くにあたり 色々調べた結果 海路ではなく 南関を経由して下関へ向かう陸路だったことが判明し なんとなく西南戦争時の西郷軍の進路と似ているなあと思いました。 

遠く離れた東京で 養父斉彬とも関わりの深かった西郷の最期を聞いた彼女は どのように感じたのでしょうか。 

今となっては確かめようもありませんが 聞いてみたい気もしますね。